uni-marcaは「どこ」にいるか、考えてみよう。ましてや、それがCDになったときに、だ。
いくつかの点をとってみる。うた。朗読。演奏。その「あいだ」。
いやいや、それではまだ足りない。現代詩。演劇。少し近くなったかな。
一言で「ヴォイス・パフォーマンス」と括る? ちがう。
それも含めたうえで、マッピングしてみなくては。
しかも、忘れちゃいけない。コントラバスの音と、かたち、という存在感、身体感があること、を。
複数の点の「あいだ」にありつつ、いまだ「呼ばれること」「名づけられる」ことからすりぬけているのが uni-marcaだ。

ただ好きなようにパフォームするのではない。 しっかりと他者の書いた「作品」と組む。
如何にもインプロヴィゼーションに傾きそうなところにいながら、そちらにながれきることがない。
「うた」を聴かせよう、声の良さを楽しんでもらおう、ではない。
正確にいえば、「だけ」ではない。 ともすればシンプルに「歌手」だの「ヴォイス・パフォーマー」だのと呼びそうになるところを 踏みとどまっておかねば。
言葉が声によって瞬間瞬間に織りなしつつ消えてゆく、そのさまのなかにかろうじてうかびあがってくる 「意味」と「イメージ」を、まさにパフォーマンスとして実現してゆく。
それはかならずしも身振りや仕草のように演劇的な要素を持っていないわけではないが、 それにけっして依存しきることはなく、かといって「うた」として、「歌曲」のような作品化、 自律化のかたちをとることもない。
ものすごく微妙でデリケートで、しかも、もっと息とともにある、生きた、生々しく、ヴァイタルなもの。
声とともにあるのが、声域とはなれた低い音域の、弓弾き(アルコ)と指弾き(ピッツィカート)が コントラストをなすコントラバス--シャレではないよ--なのも大切だ。
ときに電子的な音や他の楽器が加わることもあるけれど、声とコントラバスが、どちらが主でも従でもなく、ならびたつ。 どちらか一方だけで、どれだけ成り立つことか、想像してみればいい。
大切にされている、重きをおかれているのは、言葉のひびきであり、ひびきのみならず、 しっかりそこにつながってくる意味(サンス)、その声と意味が一体となった方向(サンス)だ。
声をつかう、歌をうたうひとにとってそんなことはあたりまえだと思われては困る。 実際、あたりまえなのだけど、これがしっかりと本人に自覚され、しかもひとに伝わるというのはごくごく稀れだ。
多くの声の音楽、うたわれる音楽は、意味など聴きとれなくてもながせてしまう。
でもuni-marcaの音楽は、つい、音を発することと、そこに意味が発生している「さま」に耳が吸いよせられる。 そしていつしか「意味=方向」を聴きとっている。
こんなユニット、と呼んでいいかどうかわからないけど、みたことがない。
そしてそれは、詩人のナルシシックな朗読に呆れたり、音楽家の言葉の理解にがっかりしたりする身にとってはまさに驚くべき、あるべき姿のようなのだ。
もちろん、ステージにいるuni-marcaにあるものが、音だけの録音、CDでは欠けている。
でも、逆に、ステージが欠けている分、イマジネーションをはたらかせること、 なおのこと刺激することもありうる。
そのこともまた、今回、発見したのが、この文章を書いている〈わたし〉である。
詩人が、役者が、音楽家が、それぞれ自らが有していないセンスに嫉妬する、名づけえぬユニット----が、いま、uni-marcaと名づけられている。

「uni-marca」ライナーノートより
小沼純一(音楽文化論/批評)